精神障害のある私が、それでも働く理由

宇樹 義子宇樹 義子

作成日 2017/02/21 更新日 2017/03/10 5,383views

私は発達障害(高機能自閉症)、および各種の二次障害といった精神障害を持っています。
今回は、定型発達者・健常者と比べて体力や適応力に限りのある私が、それでも働こうとする理由について書きたいと思います。

精神障害者だって誰かを愛したい

「怪獣のバラード」という合唱曲が大好きです。
私は自分のことを、「怪獣のバラード」に出てくる怪獣に似ていると思っています。
ひとりの精神障害者として、人から異様に思われたり敬遠されたり、好奇の目で見られたりすることがあるからです。
ときには、「迷惑だから社会から出ていけ」というような言葉さえぶつけられることも。
だけどそんな私も、人間として人や社会と交流し、誰かを愛したい。

障害者である前に人間

「精神障害者も、障害者である前に人間」
これは、ごく当たり前で基本的なことのはず。
でも、残念ながらこれを多くの人が忘れてしまっているように思います。

障害の当事者でない人、いわゆる健常側にいる人たちがとかくこれを忘れてしまいがちだということは、障害者として生きる人たちは日常的に感じていることでしょう。
支援者や専門家と言われる人たちさえ、親身に寄り添って理解してくれているのはごく一部であるように、私は感じます。

さらに悲しいのは、ときにこれを障害者自身も忘れてしまっている(正確には忘れられさせてしまっている?)ことがあるらしいことです。

「あなたは障害者だから、私たちとは違う存在だから」というメッセージをほうぼうから受け取りつづけるうちに、だんだんにいろいろなことを諦め、苦しみをひとりで抱え込む方向へと追い詰められていった面もあるのではないでしょうか。

働きたい。人間らしく生きるために

私はこう思うのです。
私は人間だから、誰かを愛したい。誰かと人生を分かち合いたい。
もし叶うなら、パートナーや家族と、支え合いながら一生安心して暮らしたい。
友人や知人などとも時間や空間を共にして交流したり、ときどきは一緒にささやかな娯楽を楽しんだりもしたい。
子どもを得る・得ないに関わらず、次世代のために何か少しでも良いものを遺したい。

そしてその次に気づくのは、そのように人間らしいことを存分にするためには、現実問題としてそれなりのお金が必要だということです。

考えはこのようにつながっていきます。

お金は、現代の世で人間らしく生きるための最も強力なツールのひとつらしい。

私はお金が欲しい。どうしたらいいか?

働くことは、現代の世でお金を得るための、最も効率的で、かつ社会にとってそう悪くない方便のひとつらしい。

私は働きたい。

※お金を得る方便のひとつとして、公的扶助を受けるということがあります。なぜ公的扶助でなく働くことを選ぶのかについては後半で説明します。

従事する仕事の内容が幸運にも自分の人生上の信条にかなうようなものである場合は、仕事することそれ自体も、私により人間らしさを感じさせてくれるでしょう。
だから私は働きたいし、自分に合った仕事を追求したい。

誰かを傷つけたいとか何かを破壊したいとかならいざ知らず、人間らしい生活を希求する純粋な心を、障害者だからといって誰かに邪魔されるいわれはない、私はそう思います。

お金は、愛に似ている

ここからは、私たちに必要不可欠な「お金」について少し突っ込んだことを考えてみます。
お金はよく愛とはかけ離れたもののように言われますが、実は「お金は愛に似ている」と私は思っています。

お金は愛に限りなく近い

お金では愛は買えない。よく言われることです。
私自身、裕福ではあるものの家族関係にやや問題のある実家で育ったので、そのことを体感としてもよく知っています。

しかし私が同時に知っているのは、「お金には愛に限りなく近いことができる」ということです。

お金があれば、愛する家族に温かい服と食事と、安全な家を与えることができる。
家族と介護問題で共倒れになったり、追い詰められて殺し合ってしまったりするようなことも避けられる。
自己研鑽のために投資し、得た知識や能力を社会に還元することもできる。
お金がないために死にそうになったり苦しんだりしている人の手助けができる。

お金に愛の代わりはできない。
けれど、愛を心に持つ人が愛のためにお金を使うとき、お金はほとんど愛と同じになる。
そんなふうに私は思っています。

だから私はお金が欲しいのです。できるだけ欲しい、もしできるなら山ほど欲しい。心のうちにある愛を存分に発揮するために。

働くことで「自分のお金」を山ほど得て、それでもって愛を最大限に行いたいのです。

人間なんてしょせんは欲のカタマリ

もちろん、「自分の欲しいものを買いたい」という単純な物欲だってあります。
「自分の愛をお金を通して社会に伝えたい」というのも、ある意味で自己満足です。
「全てお前の自己満足だろう」と言われたら確かにそのとおり。

(働くことを通して)自己実現したいという欲求は、マズローのあまりにも有名な説が言っているとおり、人間にとって基本的なものです。

欲求など、そもそもが高尚だったり綺麗だったりするものではないし、人間なんてそれでいい、なんの責められるところもない、と私は思っています。

※マズローの欲求5段階説は、現在では「西洋現代資本主義的な世界観の中でしか成立しない考え方では」など、さまざまな批判がなされています。

貧困者への奉仕で世界的に有名なマザー・テレサも、こんなふうに悩んでいたといいます。
「貧困者に奉仕したいという自分の考えは結局のところエゴなのではないか」
世界トップクラスに滅私奉公だった彼女でさえ自分のエゴに苦悩していたのですから、私のような凡人など… 何をかいわんやです。

つまるところ、いじましくも自分のために生き、いじましくも自分のために働く。
だけどその中にときおり素晴らしい生命の輝きと言えるようなものがある。
それが人間というものなのではないでしょうか。

障害者だって働いていい

いままで書いてきたとおり、私は「働きたい」という強い想いを持っています。
障害者が働くことについて、いろんな人がいろんなことを言いますよね。
「障害者は無理して働かずとも、おとなしく公的扶助でも受けて暮らせばいいではないか」
という声が、外側から、ときには当事者からさえ聞こえてくることも。
でもね、障害者でも働いていいんです。

すべての人には働く権利がある

障害者にも本来、働く権利があります。
そもそもの事実を言うと、「すべての人には働く権利がある」からです。
少し仰々しくなってすみません。とても大事なことなので、少しお付き合いください。

日本国憲法には、「すべての国民には働く権利と義務がある」ということが書かれています。

第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

日本国憲法

障害者である私も、障害者である前に日本の国民です。
また憲法については、国や政府の側が
「日本はあなたたち国民に対してこれらのルールを守りますよ」
と伝える契約書のようなものだ、という解釈があります。

ここから、私のつたない理解としては次のようなことが言えます。

  • 私には働く権利があります。
  • 国は私に対し、労働の機会を提供する義務があります。
  • 私は国に対し、(働く能力と機会のあるかぎり)働く義務を負っています。

国には本来、私たちに勤労の権利を行使させるためにあらゆる手を尽くす義務があります。

だから私たちには本来、働くにあたって必死に腰を折って手を揉んで「すいませんすいません…!」なんて態度をとる必要はありません。
背筋を伸ばして、「私は働きたいのです。働かせてください」と言っていいはずなのです。

※こうした感覚は現在、残念ながら日本で浸透していないようです。現状に対するひとつの生存戦略として「腰を折って手を揉む」というありかたは、望ましいかどうかは別として「あってもかまわない」と考えています。私も、あまり理解がないなと感じられる場では自分を守るために「腰を折って手を揉む」ような方法をとってきました。心では理不尽を感じながらですが。

いまの日本では「働く権利」は無視されがち

残念なのは、いまの日本の多くの人が、上のように憲法で定められている勤労の権利を大事にしていないこと。
彼らは、単純に知らなかったり、十分に理解していなかったり、理解していてもあえて無視してしまったりしているのです。

そして、健常・障害の垣根に関係なく、多くの人が互いに「お前に働く権利はない」と攻撃しあい、どんどん互いを生きづらいところに追い込んでいっているように見えます。

上では日本国憲法を引き合いに出して説明しましたが、
「すべての人に働く権利がある」という考えは、世界の多くの国で共通に認識されているもののはずです。
世界187カ国が加盟する国際労働機関(ILO)では、常に労働者の権利保護のための活動が続けられています。

しかし、日本ではどうも戦後、誰かの「働く権利」や「人権を守られながら働く権利」を、勝手に「ある」とか「ない」とか判断したりしてしまう傾向が強くなっているようです。
グローバル化、高齢化、災害による経済の不安定化などを経ながら、そうした傾向はどんどん強まっているように思えます。

こうした問題について、詳細は教育学者である本田由紀さんによる「軋む社会」で論じられています。

日本のマスメディアで「○○の貧困」というテーマが取り沙汰されるようになって数年経ちました。
そろそろ状況は限界に近づいているように思います。
いままでの考え方のクセを皆で改めていかなければ、多くの人の生活が成り立たなくなる日本社会が、すぐそこまで来ているのではないでしょうか。

働けない人への公的扶助が不十分


現状の日本では働けない人への公的扶助が到底不十分だということも、私が働こうとする理由の大きなひとつです。

働くと支給停止になってしまう障害年金

障害年金を受給するようになってから、更新のたびにこんなことをソーシャルワーカーさんから言われます。

「月の収入がおよそ13万円を超えることが続くと支給停止になるかもしれませんよ」

「およそ13万円」という基準の根拠は、どうも「国の最低賃金でフルタイム労働した場合の月収」にあるようです。
生活保護などの公的扶助の金額も、最低月収を基準に作られているとのこと。

月13万稼ぐと障害年金が停止になるというのは
「普通に働いた場合の最低賃金と同等の収入が得られているなら、扶助など必要なかろう」
ということなのでしょう。
しかし、月収およそ13万円など、正直言って生きるに十分とは思えません。

そもそも、最低賃金って低すぎない?

そもそも私には、この「およそ13万円」という、いわゆる健常者向けの最低月収自体があまりに低いように思えてなりません。

「そもそも食えない最低賃金」をもとに全てが計算されているから、実際には食えない程度の収入を得ただけで障害年金が切られてしまう。

障害者は健常者と比べて収入が限られがちなだけでなく、「いわゆる普通の生活」を保つのにより多くのお金がかかります。
障害年金でお金を支給されても、それは通院治療費、環境調整のためのインフラへの投資などのためにきれいさっぱり消えていきます。

正直いって、障害年金をもらってやっと「人並みの貧乏」ができる程度といった感じで、「夢の年金生活」なんてものは少なくとも私の知る範囲では絵空ごとのように思えます。

国のいわゆる平均的な人に与えられる賃金が少なすぎると、このようにより立場の弱い人たちから先に苦しむようになります。
障害者の貧困も、最近さかんに報道される若者や女性、子どもの貧困も、すべて同じ根っこから出ていると、私は思います。

日本政府には今後、最低賃金を大幅に引き上げ、それを基準にもろもろの公的扶助の金額も引き上げる必要があるのではないでしょうか。
また、理想的にはベーシック・インカム(国がすべての人に最低限度の生活ができるだけのお金を支給する制度)が導入されてほしい、と私は考えています。

社会が変わるのを待ってはいられない

私は経済のことにはとんと疎いので、とても実現可能性の低い理想論を語っているだろうと思います。
ただ、こういった類のことはまずは理想を掲げなければ、どんどん悪きに流れていくいっぽうなのではないでしょうか。

国には、どうにかして国民に対してもっとお金を出す道を探り出してほしい。
障害者だけでなく、すべての人の幸せのために。
いわゆる普通の人を大切にできない社会が、彼らよりも弱い人たちを大切にできるとは思えないのです。

…と書いてはきましたが、社会が変わるのには時間がかかりますし、残念ながらいい方向に変わるとも限りません。

だから私は、幸運にも能力を発揮できる仕事を与えてもらえる限り、できるだけ働いて、可能なかぎりたくさんのお金を稼ぎ出すことを目指したいと思うのです。
理想としては、もっと純粋にプラスの理由だけで働きたいものですが…

私は、働きたい

以上が私の、「自分が精神障害者であっても働きたい理由」です。
私は働くことを選びますが、他の人たちが他の選択肢を選ぶことを否定しようとは思いません。
私は単に、幸運だったにすぎないからです。

あなたは生きていていい

ほかの生き方を選ぶ人、また、選ばざるをえない人を、私は絶対に否定しません。
否定しないばかりか、強く肯定しようと思います。

私だって少し条件が違えば、働くことを諦めていたでしょう。
どうしても仕事へのとば口を見つけることができずに苦しんでいた昔の自分を振り返ってみて、
「あなたは生きていていい。なんの恥ずかしいこともない」と、誰かから言われたかったと感じます。

だから、働くことを諦めざるをえない人を私は肯定します。
誰からなんと言われようと、誰にどれだけ「迷惑をかけ」ようと、あなたは生きていていい。

恵まれたぶんを返していきたい

私は本当にたまたま、30を過ぎて支援的環境に身を置くことができ、二次障害も徐々に軽快して自分に向いた仕事に出会うことができました。
また、実家では家族関係には恵まれなかったものの、高い教育をつけてもらうことができました。

現在、三度の飯に事欠かず、働く権利だの、愛がどうのだの言っていられるのは、単に私の運がよかったから。
障害者・健常者問わず、運悪く不本意なところに押し込められ、その人がもともと持っていた良さや才能を潰されてしまう人のほうがむしろ多いでしょう。

そんななか、自分は稀な幸運によって、自分の良さを増幅させるために努力する機会と、その努力の結果を存分に発揮できる環境を与えられたのだと思っています。
ただ、たまたま恵まれたからこそ、何かを社会に「お返し」してから死にたいということは、いつも願っていることです。

たくさんの人の幸せを願って

働き方や生き方について障害ゆえの苦しみを抱く人が、また、その他もろもろの弱い立場に置かれている人が、少しでも楽に生きていける世の中になりますように。
その変化のために私の存在が、ほんの少しでも、1ミリでもいいから貢献できますように。少なくとも邪魔になりませんように。

勝手ながら、私はそう祈っています。

次の記事:成人発達障害者が相談できる機関の体験談

この記事を書いた人

宇樹 義子

宇樹 義子

成人発達障害者(高機能自閉症)。 30過ぎまで発達障害が発覚しなかったこともあり、思春期から20年ほどもろもろの二次障害に苦しみました。自身の経験をもとに、発達障害者や悩みを抱えた人に向けていろいろと発信中。 ライターの仕事のかたわら、個人ブログ「decinormal」を運営。動物が大好き!

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